「精度を上げる」という作業

なんでもしていいよと言われると、逆になんにもできなくなるときってけっこうあると思う。

誰かを食事に誘うときも、希望を話し合ったうえでジャンルとお店を各2つか3つくらいに絞って提案した方がスムーズだったりする。

ある程度絞られた選択肢のなかだと、処理する情報量が減るから判断に至るまでが楽なのかもしれない。

   

ふと今年で自分が高校を辞めた年から5年経ったことに気が付いて、なんだか感慨深い気持ちになった。

その5年間を過ごしている間は1ヶ月がとてつもなく長く感じていたのに、いまになると、もう5年なのかと驚く。この、時間に対する脳の反応はどうにかしてほしいものだけれども、いまの自分に納得した気持ちでいる。それは自分の掲げた基準点よりも高く多様な面で成長できたことが大きい。

多くの人に助けられてきたからだ、ということはもっともだが、それでも成長することを諦めずに自分の弱さと向き合うことのできた自分を偉いと思いたい。

この5年間をRPGで例えると、呪いと毒のデバフをかけられてシーフなのに大剣を装備して、始まりの街から4つ目くらいの街から宝を探しに旅に出たのにその宝がなんなのか、どこにあるのか95%わかっていないクソゲーのようだった。

呪いと毒っていうのは、成長の過程で備わった自己の存在の不承認感や低い自己肯定感、そこから生じる失敗への恐怖や周囲の反応への過敏さ。

大剣装備のシーフは、根本的な自分と期待に応えようとしてつくった自分とのズレを修正しなかったことにより見失った自分の至り。

宝っていうのは、自分を愛してほしい、なにもできない自分でも認めてほしいという、本来幼少期に母親からもたらされるはずの生物的欲求を満たしてくれるなにか。けれどその欲求を理解したくなくて他者からの乾いた称賛や承認にすり替えてまた見失う。

こんなクソゲー体力のある10代じゃないと絶対プレイしたくない、というかもうできない。自分の精神的課題の理解とその改善、根本的な自分の性格と環境の影響でつくられた自分の性格の仕分け、自分の職業適性や自分の幸福値になにが影響するのかの試行錯誤。しんどい。

自分がシーフだと知って(例えの話)大剣よりも短刀の方が力を発揮しやすいと知ってからの快適さは以前の比じゃない。

  

タイトルにある「精度を上げる」っていうのは自分らしい自分の化石発掘作業みたいなことと、出力装置としての言葉のスペックを上げることを指していて。

自分を見失ったまま生きてきちゃった人間は、まずは岩に埋もれた本来の自分(化石にあたる部分)を化石と岩に分けて岩を削る。その化石の部分からその恐竜がどんな生活をしていたのか仮説を立てるように、自分の幸福値に関係する要素や向いていることと好きなことを分析してとりあえずやってみる。そしてひたすら試行錯誤して精度を上げる。

ぼくの場合は、生物をつくるのは環境で人間も例外ではないと考えたからまず高校を辞めて、データを増やすため(言い方を変えれば自分探し)に日本一周をしてみた。

そのときは食品ロスにすごく関心があってなんというかこう、「どうにかしたい!」と思っていたんだけれど、そのぼくが言った「どうにかしたい!」という言葉の背景には自分が認められたいが50%くらい、食材や道具に敬意を払えない人間はカッコ悪いし、ちゃんと食べられるごはんがあってそれを必要とする存在もいるのに廃棄されるのはなんか上手く歯車がかみ合っていないし自然の掟にも反して気持ちが悪いが50%。

でも当時はそのもやもやな気持ちを上手く出力できなくて、「どうにかしたいんだ!」っていう結果になっていた。それはどうにかしたい気持ちは嘘ではないが、ただその状態が不愉快だってだけ。現代社会で無数にある不愉快なことのひとつでしかなくて、自分はその問題をどうしても解決したい訳ではなかった。

なかったが、自分の向いていること、したいこと、すべきことを通して結果的にその解決に貢献したいとは今も思う。結局、自分の幸福と周囲の人の幸福が維持できたら人類の幸福、地球の幸福へとスケールをシフトしていくことになるのだから、順番的に他にやることがたくさんあったということになる。

ぼくは言葉は人が生み出した道具で、出力装置だと考えている。Aという事象を言葉を用いてA´として他人に伝わるものへと出力する。

だから、その入出力には実は技術が必要で、空とか虹とか体外の現象を表すことは簡単でも自身の心情を表すときはけっこうミスをしたりする。「おれは金持ちになりたい」のAは「疲れる仕事はしたくないし大変な努力もしたくないけど自分の欲求が全部満たされる状況がほしい、でも自分の欲求を正確には把握していない」とか「貧乏だからといじめられた毎日と決別したい」かもしれない。

そのAにあたる言葉に変換される前の何かを察することのできる人っていうのがある意味でのコミュニケーションの上手い人なんだと思う。

普通に生きていたらこの入出力の精度を上げる訓練を意識してやらないことが、2000年以上前からイエスキリストや釈迦が説いてきた心との付き合い方に進展が少ない要因のひとつなのかもしれない。この5年間はずっとその「精度を上げること」を意識してきたおかげで、最近ようやくその入出力のズレが小さくなってきた。

   

本音の自分と合わせている自分のズレを修正、心情を出力するときの言語化のズレを修正、自分の幸福値を一定のラインまで上げるために現状と理想のズレを修正。毎日毎日修正してきた。

こんなに油断するとすぐ横道に逸れる人間って自分だけなのだろうか、頭がいいとか夢とか抽象的な言葉に全部個人的な定義付けをするようなめんどくさい人間は自分だけなのだろうか、とかよく思った。

冒頭の与えられた情報量が多すぎると脳が使えなくなるって話を書いたのは、小さい頃はただ勉強していい子にしているだけで不自由なく生きられたのに、高校を辞めた途端に選択肢が無数に広がりまくって、「どうしよう割と何でもできるけど何したいのかわからない」という贅沢な絶望のなかから、孫子の教えを守って情報の取捨選択をし続けた成果が今けっこう出ていて嬉しかったから。

そして仕事やゲームのように、ある程度情報の定められた中でだけ成果を発揮するのではなくて、生きている時間という正直なんでもしていい、情報が限りなく完結しない中で日々成長をしていきたいと2021年を迎えて改めて思う。