流転

夏の匂いを感じる季節になりました。

2020年以降は時間の流れが非常に早くなったような気がします。それは季節の催しが減ったからなのか、人と関わる思い出が減ったからなのか、単純に歳を重ねたからなのか。おそらく様々な要因があってそうなっているのでしょう。

久しぶりに会った友達が結婚していたり、三十路になっていたり、前あったお店が入れ替わっていたり、気が付けばもう今年が半分終わっていたり。

たまには陽だまりでお茶を飲みながら「ああ、なんか色々変わったなあ」としみじみ日々を噛みしめなければ、いつの間にか死んでいるんじゃないかとすこし寂しくなります。

去年の大きな変化を思い返すと、気持ちや気合いでどうにかしようとすることが大幅に減ったことと、対処的行動が減ったことが自分の成長の中では重要なものだったかもしれません。

二十数年生きてきて今更かよと思いますが気持ちだけでどうにかできるのは、あと一息な場面とか、かなり実力等条件の拮抗した勝負、あとは確率の低い奇跡的な展開くらいしかないのかなと思います。

マンガやアニメはそういうシチュエーションを魅力的に演出して印象に残しているだけで、現実においてはまず仕組みや外的環境、基礎的な要素に注力して時間と労力を費やさないと成功や勝利、豊かさなんかを獲得しにくいのではないかと感じた年でした。

 

これまでもなるべく意識して大枠から変えるようにはしてきましたが、気持ちではなく仕組みを変える習慣をつけるだけで大幅に仕事も私生活もパフォーマンスが向上しました。

よくよく考えてみれば生物である以上外的環境による影響からは逃れられないわけで、人の進化や変化のほとんどはその環境に対してのものであることは、数千年単位でも数カ月単位でも同様なのかもしれません。

心や気持ちが言語の発生により誕生したという仮説を信じるならば、やはり特定の条件下以外ではより外側の要素を変化させて、内側の要素を変化させる方が合理性が高くて気持ちがいい。

なんというか、生物の仕様的にどうにもし難いことを性善説的な気合い論でどうにかしようとする社会は昔から居心地が悪く感じていましたが不快感が強くなりました。その風潮は今後も人の仕様として消えないのか徐々に消えていくのか、わからないので見ていきたいです。

対処的行動が減ったことは能動的になったということとも少し違くて、以前に比べてちゃんと事前に半歩先場合によっては数歩先を予測しようと心掛けるようになったというか。億劫でも不要なリスクを減らして得られる情報量を増やすことで目先の面倒よりもその先のメリットに意識を向けられるようになったということです。

自分は怠惰な人間なので、いかに自分の性質を利用して自分の理想に対して適切な行動をとれるのかが大事なのだと思います。そういえば自分の性質を否定しなくなったのもすごく大きな変化です。

以前は人目を気にしすぎたり無駄に繊細だったり、気分の幅が大きいような性質を否定して、直そうなんてことを考えていました。けれど考えてみればこの性質の自分を別に嫌いではないし他の性質になりたいわけでもありませんでした。ただもっと上手いこと自分の性質と付き合いたかっただけで、直すとか変えるとかそんなことはしなくてよかったのです。技術と経験が不足していただけ。

少し話が派生しますが”やりたいのにできない”ような状況でも似たような発見がありました。たとえば運動やダイエット、勉強なんかをやろうと思ってもできない、続かないみたいな状況を経験したことがある方は多いかと思います。

生物には常に不快を避けて快楽を求める習性が備わっていてほぼすべての行為がそこに収束するのに、どうして自分にメリットがあると思った行為が出来ないのか。

それはすごく単純に自分の意識下ではなく無意識下でその行為が不快だと判断してしまっているからだと書籍や自分の仮説から考えました。

意識下では将来的に自分のメリットになると思う行為でも、目先ではつらーいと心のどこかで感じてしまっている。そうすると自分の無意識は自分を不快感や急激な変化から守るためにその辛い状況をやめさせようと作用しているようです。

無意識下における自己防衛本能には将来性という概念はおそらく非常に少なく、いまこの瞬間自分を守るという要素が強いのだと思います。将来性なんて文明を築く前の人間にはなかったからなのか。後天的な鬱病も自己防衛手段のひとつという説がありますし、誰かに本音を突かれて怒るのも自己防衛本能のひとつと言われているようです。体調が悪いときにファストフードや身体に悪いものを食べたくなるのもそういうことなのかも。

 

すなわち”やりたいのにできない”ような状況のとき自分の中では無意識が自分を守ろうと作用してくれているわけです。そうとわかれば、自分を守ろうとしてくれた無意識を否定して無理に気合いでどうにかするのではなく、まずは無意識を肯定して無理なく習慣的に行える仕組みをつくっていくことがスムーズなやり方なのかもしれないと思いました。

つらつらと去年の変化を書いてはみましたが、なんだかすごく自分が偏屈な人間に感じます。ブログなので好き勝手に書きたいことを書いていますが、これは面白くもなんともないただの発見と考察のメモですね。それはこれまでも変わらないと言えば変わらないのですが。

そういえば十代の頃は言葉にしたい葛藤が毎日山のように湧いていたのに、いまは全くと言っていいほどになくなりました。自分の理想は定まったし、手段と方向性も把握しているし、自分の性質の理解精度の向上に現状確認や修正なんかも定期的にしている。

欲を出せばきりはないけどやれることはやっているので、すごくスッキリとした心持ちで居られるのかもしれません。

今年もあと半年となりましたが、納得のいく一年になりますように。